高校ラグビー「'93 冬花園」

 

ラグビーワールド誌・1994年12月号に寄稿。基本的には原文のままであるが、所属等については修正

@ 序章  ---一つひとつの試合が「やればできる」という自信を与えてくれた---

10月1日、高校ラガーメンの憧れである花園への切符が、北海道で全国に先駆け早くも手渡された。
もちろん、その後も各地で激戦を制した勇者たちが続々と名乗りを挙げるが、高校ラガーメンにとって、
この花園出場は何物にも代えがたい大きな意味合いを持っている。
---全国高校ラグビー大会---。それは、1年間の練習の成果と3年間の高校生活全てを精一杯にぶつけ、
チャレンジする高校生たちが一番輝く瞬間。これまでも多くの勇者たちがしのぎを削り、様々な激闘を
演じてきた舞台である。相模台工業が悲願の初優勝を果たした第73回大会でも、その一撃必倒の
タックルと速いテンポのオープンラグビーで次々と全国区のシード校をなぎ倒し、快進撃を見せたチームが
あった。
---長崎北---。ノーシードで臨んだ彼らが準決勝でついに力尽き果てるその瞬間まで、常にひたむきな
プレーで花園の大観衆を魅了し続けたその要因について、そしてその1年間の闘いの裏側を、監督の
ラグビー論を交えながら振り返る。

A ラグビーとの出会い

昭和45年、諫早高校に進学した。そこで初めてラグビーという球技に出会った。それは、球技といえども
格闘技的な要素を持ち合わせたものだった。偉大な師と恐いが頼りがいのある先輩方に恵まれ、
すばらしいスタートを切ることができた。

ラグビーの魅力は、鍛え上げられた身体同士の真剣なぶつかりあいである。これが、老若男女を問わず、
ラグビー場に足を運んでいただく大観衆を魅了する要因であろう。さらには、ただ一つの球を30人の
男達が奪い合う、その攻めぎあいが強烈なドラマを生み出すのであろう。

高校時代、花園という存在は知っていた。すぐ近くには、諫早農業高校という全国でも有力なチームも
あった。しかし、私たちにとっては単なる憧れにすぎず、見果てぬ夢また夢の世界に過ぎなかった。
大学受験という大義名分のため、高校ラグビーを中途半端な形でピリオドを打ち、ただ一つの日本一に
挑戦する機会を自らの手で放棄したことに今では憤りをさえ感じている。自分自身が果たせなかった夢を、
教え子達には是非達成して欲しいということが、現在の私を支えている大きな活力になっている。

B 監督の心理

監督の心理状態は、直接選手に影響を与えることになると私は思っている。それも、互いの信頼関係が
深いチームほど敏感に伝わっていくだろう。選手と監督のコミュニケーションがうまくとれていないと、
大事な場面で重要な事項がうまく伝わらないなど、チームにとって取り返しがつかないことになる恐れが
ある。監督と選手は、当然の事ながら年齢的にいくらかの差がある。しかし、ラグビーに関しては同じ
価値観で、さらには、同じ目の高さで選手に接していくべきではないかと思う。監督がひたむきになると、
それが直接選手に伝わり、チームがよい方向に稼動することになる。

選手の自主性を育成することは、ラグビーのみならず、教育の原理であり、鉄則でもあろう。根本的に
行き先を誤ってしまいそうな時だけはしっかり指導するべきだと思うが、多少の揺れはあえて放置し、
後はリーダーを中心に考えさせるべきだと思う。しかし、これには、多少の差があり、いろんな問題に
的確に対応できる能力を有しているという絶対の条件がある。要するに、自主性の尊重と放任とは
ほんの紙一重のことであり、見方によってはその差を見出すことができない場合すらある。

選手を目標地点まで導く手段には、いろんな方法があるだろう。技術、戦法、情熱、相互理解・・・・。
行きつくところは選手に対する愛情なのではないか。チームにある程度の適性があり、そこに愛情を
注げば必ず選手は順調に育っていくと信じる。

監督はいつも心の中では熱く燃え上がっていなければならないのだが、いくらかの余裕も必要である。
ある意味では、博打のようなところもあるかも知れない。ストレートの表情に出してよいものと、絶対に
ダメなものがある。ここを見誤ったら、選手は一瞬のうちに舞い上がってしまう危険性をはらんでいる。
監督は選手にとっては、親爺的な存在である。何事にも動じない、堂々とした威厳が強く求められる
のである。

C 東京農大二高 伊藤 薫監督

第73回全国高校ラグビー大会準決勝で対戦した、東京農大二高の伊藤薫監督は私の母校である
日本体育大学の後輩にあたる。あの対戦を通じて彼の高校ラグビー監督としての素晴らしさを感じた。
東京農大二高は弟72回大会では惜しくも決勝進出を逃した。それも、同点引き分けの末、抽選の
運命によってである。準決勝で対戦する長崎北はノーシードであるし、体格的にみても下位に位置
している。普段だったら、勝利を確信して「受ける」ところである。

近年の高校ラグビーは大型化が急速に進み、大学ラグビー顔負けである。しかし、精神的にはまだまだ
幼い少年に過ぎないのである。この大会で対戦した秋田工業高校や大阪工大高校においても、体格、
技量、フィットネス、経験などラグビーのあらゆる分野で圧倒しながら、とうとう最後まで本来の力を
発揮できなかったのであろう。

東京農大二高は「受ける」ことがなかった。地方の無名のチームに対して、全身全霊をかけて立ち向かって
きたのだ。逆に私の心の中に、決勝進出、そして優勝などと分不相応なことがちらちらと顔を覗かせはじめ、
さらには、やっと普通の体格のチームと対戦できるという「受け」が生じた。

試合に関しては互角以上に戦うことができたし、満足のいく試合内容であった。あえて、勝負の分岐点を
探すとすれば、FWでもBSでもなかった。むろんゴールキックなんかでもない。単に勝負への執着心の差、
ただそれだけのことであった。

D 花園への軌跡 [学校創立から創部、そして悲願の初出場]

昭和61年12月27日、快晴の花園ラグビー場で第66回全国高校ラグビー大会が華々しく開幕、
川上博文部長〔故人・平成9年7月没〕、西野忠文監督〔故人・平成9年12月没〕、久保田和典コーチ
率いる長崎北高校ラグビー部は、高校ラガーマンの憧れ「花園ラグビー場」に始めてその一歩を記した。
実に創部18年目の出来事である。昭和42年ころから同好の志が相集い、ラグビー部として発足して
以来たゆまぬ努力の証である。

長崎北高校は戦後のベビーブームに対応すべく、高校急増対策により昭和39年4月長崎市北部に
位置する小江原町に創立され、その輝かしい歴史がスタートした。長崎県下はもとより、全国でも有数の
進学校であり、生徒のほぼ100%が大学進学を目指し、90%以上が国公立大学を志望する。

ラグビー部の創部は昭和44年のことである。初代監督山本愛三〔元高校長・大瀬戸町在住〕のもとに、
数年前から同好の志がひとり、ふたりと集まりラグビーに興じた。川尻次郎〔長崎坑木社長〕、筒井宏志
〔筒井宝飾社長〕、養父直(菱算・OB会長〕、らがルーツであるが、絶対に忘れることができない大恩人が
いた。故・荒木公二〔元・会社社長〕。彼こそが一番の理解者であり、最強のサポーターであった。
しかし、平成5年7月、こよなく愛した後輩たちの快進撃を見ることもなく突然逝ってしまった。41歳の
あまりにも早すぎる別れであった。

昭和49年に西野忠文氏が監督に就任してから、長崎北高校ラグビー部は徐々に県下でも強豪の
仲間入りを果たしていった。昭和61年、本多史英主将〔伊勢丹〕、西野竜馬〔西日本菱重興産〕、
一瀬健〔三菱重工長崎〕、深堀竜也〔米国在住〕らジュニアラグビー出身者で固めて臨んだ第66回全国高校
ラグビー長崎県大会準決勝では、優勝候補筆頭の呼声が高かった諫早農業高校を降すと、その勢いで
決勝戦は長崎北陽台高校を圧倒してついに悲願の花園への切符を獲得して、第一期黄金時代が到来した。
翌年は緒方広道が赴任、青井成親〔日動火災〕、板坂剛〔九州電力〕の高校日本代表選手を擁してシード校に推挙された。さらに、昭和63年は本多秀典主将〔西陵高校ラグビー部監督〕のもと三年連続花園出場
という金字塔をうち立てた。

その後の四年間はあと一歩のところで花園への道を絶たれた。そのころ、花園常連校としての地位を
築き始めたころであり、平成元年から3年連続して決勝戦で敗れた試合は、今なお一番辛い思い出として
残っている。

E 花園への軌跡 [歴史を創った25名の戦士たち]

平成3年4月、まだあどけなさの残る少年達が長崎北高ラグビー部の門を叩いた。

神辺 光春 吉田 尚史  深堀 敏也 徳澄 渉  村田 傑人  林田 雅嗣 金子 真 脇坂 秀雄  山田 巌
山下 貴志 高比良 徹  松崎 弘展 満井 一貴 宮原 幸三 鐘ヶ江義裕 池田 貴之 光武 龍麿 尾崎 剛
山口 亮 西川 輝顕 小川 竜彦 辻丸 英人 川口 真也 山川信一郎 萩田 将洋

第73回全国高校大会で北高旋風を巻き起こした25人の戦士たちである。この中には、中学浪人という、
苦しくて、厳しいハードルを果敢に越えてきた3名も含まれていた。近年まれにみる新人軍団であった。
人数もさることながら、近い将来チームの核になりうる選手と期待を大きく膨らませた。だが、この時点では
全国8強など見果てぬ夢か単なる憧れに過ぎなかった。とにかく、なにがなんでも花園に駒を進めることが
頭の中の100%を占めていた。

まさか、彼らが秋田工業高校や大阪工大高校などの全国区の有力高校に競り勝ち、全国4強に輝く
などとは、誰ひとりとして予想できることではなかった。

F 花園への軌跡 [コーチングスタッフ 夢に向かって] 

「グラウンドに炸裂する強烈果敢なタックル,これこそがラグビー,ラグビーの華」。長崎北高校ラグビー部の
目指すところの基本理念である。
この「アタックル」という異名をとったほどの,激しく,攻撃的なタックルが,第73回全国大会でノーシード
長崎北高校を4強進出へと導いた最大の要因である。

緒方 広道

諫早高校に入学してラグビーに出会う。球技といえども,格闘技の如く激しく、男らしいスポーツの魅力に
とり憑かれる。高校時代の師である,田口康徳氏〔諫早市在住・最近はテニスの達人である〕に憧れ
日本体育大学に進み,長く苦しかった下積み生活のあと,4年生になって始めて関東大学対抗戦に出場
した。諫高時代はプロップ,ロックとして頑張ったが,花園などまるで別世界,夢のまた夢でしかなかった。
大学卒業後は郷里の長崎県に教職員として戻り,小学校に2年,中学校に5年勤務した。佐世保市の
中学校では保健体育科教諭として勤務する傍ら,国立佐世保高専のコーチを引き受け,常に時代を先取り
する指導を目指した。その後,五島列島の五島商業高校に転任となり、女子バレー部を指導した。
ラグビーの世界から疎遠にならぬよう長崎教員チームに在籍して主将,監督を歴任した。

昭和62年,ついに高校ラグビーとの出会いがあった。県高校ラグビー界の新興勢力として,着実に力を
つけてきた長崎北高校への赴任。多くの方々のご尽力があってのことであり,その重責に身が震えた。
赴任してからの2年間は,以前からの勢いを持続させて花園出場を果たした。しかし,以後4年間は
というと・・・。3年連続で決勝戦で惜敗,準決勝で敗退・・・。今でも思い出すと辛いことばかりだが,
あのころに真の笑顔は無かったように思う。しかし,毎日毎日が花園という大目標に向かって充実していた。「誠実・気力・実行」という指導理念を掲げて,部員やコーチと泥まみれの日々を重ねた。

久保田和典

長崎北高校第12回卒業生である。滑石中学時代は柔道競技の猛者としてならしていたが,高校では
果敢にラグビーに挑戦した。長崎造船大学〔現・長崎総合科学大学〕に進学,大学でも中心選手として
活躍した。その後,三菱重工長崎関連企業に奉職,長崎代表選手として活躍する傍ら,母校のコーチを
委ねられその後一貫して母校の強化に携わる。

このコーチ稼業も早20年になろうとしている。爽やかな性格と気っぷの良い男気で,部員はもとより、
卒業生たちからも兄貴のように慕われている。さらには,OB会事務局長として会の発展のために東奔西走
して現在の確固たる組織の基盤づくりに大きく寄与した。

現在,長崎市内で保険代理店を経営,多忙な業務の中,毎日の練習はもちろん,すべての遠征試合,
合宿に同行し「人生,すべてが気合いだ」をモットーとして熱血コーチを展開している。

本多秀典

第23回生卒業生である。小学校低学年よりラグビーに親しみ,長崎ラグビースクールの中心選手として
活躍し主将の重責を務めた。高校時代は3回花園に出場,WTB,CTB,FBの3ポジションで出場した経歴を
持つ。筑波大学に進学,1年生から正選手として活躍。4年生では主将を務めるなど,関東大学ラグビーの
花形選手であった。大学卒業後,母校に保健体育科教諭として赴任した。ラグビーの科学的理論に優れ,
高校日本代表コーチなどを歴任した。

体育科教師,ラグビー部指導者としての器量,キャリア共に申し分なく自分の持つ全てを選手に捧げる
信念で毎日泥にまみれている。主として,BSの戦略戦法とフィットネス強化を担当した。将来の日本ラグビーを背負ってゆく逸材であると期待される。

この両コーチの縦横無尽の活躍が,花園に大旋風を巻き起こした。むろん,私が最も信頼し,すべてを
任せることができたコーチングスタッフである。

そして,平成5年11月・・・。長崎北高校ラグビー部は4シーズンの沈黙を打ち破り,ついに長崎県代表の座を奪回した。

G 花園への軌跡 [ライバル 長崎北陽台とのしのぎあい]

第73回全国高校ラグビー長崎県大会決勝は,激戦区長崎の代表を決するに相応しい好試合を展開した。
平成5年11月21日14:05,県立総合運動公園競技場においてその熱戦の火蓋は切られた。対するは
宿命のライバル,浦敏明率いる長崎北陽台。最後のワンプレーまで勝敗の行方が定まらない,手に汗握る
熱戦であった。

前半,風上に立つ長崎北は5点のリードで折り返す。この点差はワンチャンスで逆転可能な得点差である。
逆風をまともに受ける後半が残っていた。互いに激しいタックルの応酬で両軍無得点のまま時間は過ぎ,
そしてノーサイド。このシーズンで一番苦しく,印象に残った試合であった。この厳しい攻めぎ合いがあった
ればこそ,花園でのタフな試合の連続にも耐えることができたのであろう。長崎北陽台をはじめ,県内の
ライバルたちの心を大切に携えて花園に臨んだ。この協力なライバルとの凌ぎ合いが旋風を巻き起こす
ことができた大きな要因であった。

長崎北と長崎北陽台はここ10年来,県高校ラグビー界を常にリードしてきた。特にこのシーズンは完全に
2強対決の様相を呈し,主要3大会いずれも決勝で激突,1勝1敗の相星対決のあと,最も重要な花園への
切符は長崎北の執念が上回った。

長崎北陽台高校ラグビー部監督浦敏明。日本体育大学の大先輩であり,永遠の目標である。近づくことは
できても,おそらく越えることはできない存在。ここ10数年来の長崎県高校ラグビーの牽引者である。

長崎ラグビースクール時代,神辺光春が主将,品川英貴が副将を務め,チームリーダーとして互いに
大車輪の活躍を見せていた。運命の悪戯であろうか,高校では宿命のライバルチームの主将として火花を
散らした。プレーは勿論,精神的にも大きな支柱だった2人もノーサイドの瞬間からは,もとの仲の良い友人
に戻った。これが,ラグビースピリットの最たるものであろう。長崎北が花園初戦突破を果たした12月28日,奈良・吉田屋旅館に一通の電報が届けられた。

「たかし〔吉田尚史〕,としや〔深堀敏也〕,トライおめでとう。萩ちゃんナイスタックル!!」
ライバルたちの活躍に,品川英貴は心からのエールを送った。

H 花園への軌跡 〔校是両道顕揚 全員の心で掴んだ花園〕

みぞれまじりの競技場にノーサイドを告げる笛が響き渡った。長崎北5年ぶり4回目の花園出場が決定した。勝利に沸くスタンドの応援団、勝利の雄たけびをあげる選手たちとは少し離れて、静かにこの勝利を
かみしめている3年生11人がいた。勝利の喜びよりと共に、真っ先に脳裏をかすめたのは試合に出場の
機会をつくれなかった3年生部員のことであった。

28回生は総勢25人である。入学以来のいろんな艱難辛苦を乗り越えて、最終的にはただ一人の脱落者も
なく、全員で楕円球を追いつづけた。全国大会においても、11人の3年生はとうとう最後まで試合出場の
場面はなかった。中でも、5人は大会選手登録からも外れ、スタンドからの開会式となった。しかし、日頃の
練習では彼らが率先してグランドに飛び出し、走り続けた。特にこの5人の勇者は私の最大の誇りであり、
彼らの情熱と気迫は永遠に語り継がれていくだろう。

2月の新人大会を圧勝し、順風満帆でスタートしたシーズンであったが、6月にチーム存亡の危機を迎えて
いた。高校総体で宿命のライバルである長崎北陽台によもやの逆転負けを喫したのである。さらに、長崎
北陽台は県大会優勝の余勢をかって、九州大会でも圧倒的なチーム力で優勝した。

今年もまた花園は難しいのではないかという不安と焦りが交錯し、悪夢が選手をはじめとして皆の頭を
よぎった。ほどなく選手たちは平静を取り戻して一心不乱に練習に打ちこみ、冬本番への挑戦が始まった。
と思った矢先、父母の会としては到底これで収まることはなかった。「どうせ花園に出られないんだったら、
受験に専念させたほうが・・・。」などの声が出始め、日に日にその声は大きくなっていった。過激派と見られる一部からは、「おがたはラグビーが解っとらんばい。あいじゃ勝つもんね。」などというような話まで聞こえて
きた。さらに、ゲームメイクのことや選手起用のことなど、まさに空中分解寸前の未曾有の大ピンチを迎えて
いた。

この類のことはどこにもあることだし、監督がしっかりしさえすれば、やがては終息に向かう問題であった。
しかし、突然話題が主将神辺のキャプテンシーに及んだときは、さすがに緊張を隠せなかった。この時ばかりは主将神辺光春を守ることだけに集中した。これで神辺が動揺してしまったら、それこそ取り返しがつかない事態に陥ることを確信した。

全国大会から帰り、それぞれが次の道に向かって動きだそうとしていた頃神辺がつぶやいた。「大人なんて
本当に勝手なものだ。勝ったときは我が事のように喜ぶが、負けたら責任のなすりあい。・・・。」まだまだ
幼い高校生に大変な気苦労をかけてしまった。この件は両親の深い愛情のおかげで事無きを得た。

その後、何度も父母の会との懇談会を持った。私は高校ラグビーに対する基本的な所信を述べ、腹を割って
とことん話し合い、校是両道顕揚を説いた。その結果、3年生25人全員が一致団結して花園を目指すことで
最終的な決定を見た。強い説得の結果、なんとか納得していただいて突き進むことになったのであるが、
荒海に立ち向かう小舟のような不安だらけの船出であった。もしこれで花園への道が絶たれるようなことが
あったら、自分なりのけじめをつけようとも思い、覚悟を決めての出陣であった。不思議なことに、ここまで
来ると身体中の無駄な力が抜け、爽快な気分になり力が湧き上がってくるのが解った。

この闘いに全面的にバックアップしてくださった学年団、進学指導部、さらにはOB会、同窓会の期待に
応えるべく、簡単に言葉では言い尽くせないほどの辛く、厳しい夏の練習を皆で乗り越えた。

「3年生が全員花園を目指すチームと、それができなかったチームとのハートの差が出た・・・。」
浦敏明監督は決勝戦を終えて、簡潔に自らの敗因を語り、ライバル長崎北の勝利を称えた。

I 花園への軌跡〔自ら考え、創るラグビーを目指して〕

主将神辺光春の高校レベルを超越した、キャプテンシーとゲームメイクも長崎北快進撃の大きな要因で
あった。「1993日本ラグビー」の中で次のような一文に出会った。
「高校大会では相模台工業が3度目の決勝進出で悲願の初優勝を達成した。しかし、特筆すべきは小さな
体で黒沢尻工業、秋田工業、大阪工大高などの古豪を次々に打ち破り、準決勝に進出した長崎北の活躍
だろう。常にトライを狙う積極果敢な姿勢と、自らゲームをコントロールしていく戦い方は高度であり、高校
レベルを超越しており、本年度最も高く評価されてよいチームだった・・・。」

キャプテンシー・・・。ラグビーという競技には絶対に欠かすことのできないものである。打、走、守など
ほとんどすべてのプレーを監督の指示で、まるで制御された高度なロボットのように動く野球などとは違い、
選手たちがいったんピッチに立つと監督はいかなる指示出すことなく、ただ、戦況を見守るしかない。たとえ、大声で指示を出したところで、常にプレーは動いているので何の役にもならないのである。そのゲームに
関しての全権はすべて主将に委ねられている。

このようなラグビー特有のキャプテンシーを尊重したい。理想は一旦選手を競技場に送り出したら、すべてを
選手達の判断に任せる。主将に率いられた選手が自身の判断で思い思いに創る自主的なラグビーである。
たとえ、ゲームコントロール上のミスが生じたとしても、選手はベストを尽くしただけのこと。すべてはコーチングスタッフ、ひいては監督の責任に過ぎない。それは、日頃の練習の中でそのプレーに対しての意識づけが
完全になされていなかったことに他ならないのである。

J 有終の逆襲、そして笑顔のノーサイド

一回戦 対 清真学園高校〔茨城〕

初出場ながら、激戦区茨城県代表で相当の実力校との噂しきりであった。一歩誤ると敗戦必至という、大変
際どい勝負であった。渡辺聡監督との卒業以来17年ぶりの再会は、日本体育大学同期生対決でもあった。
あくまでも、トライを奪うことを至上の目標と定め、試合中常に全力でプレーし続けた清真学園。
個々のプレーヤーが有する、正確かつ強烈なタックルがいかに重要であり、ラグビーにおいては攻守転換の
切り替え術が最高の妙味であることを示した長崎北。花園ラグビー場に爽やかな風をもたらした。

二回戦 対 黒沢尻工業高校〔岩手〕

かつて、全国準Xを誇った古豪はノーサイド直前に執念のトライを返し、コンバートが決まれば再逆転という
局面を迎えた。渾身の力で放ったキックは、ほんの僅かに反れ長崎北の進撃が始まった。
前日の練習ではフォワード陣、特に前五人にとっては辛くて厳しい勝負になることを覚悟のうえ戦い、
我等が誇るバックス陣を活かせる戦いを是非見せて欲しいとひとり、一人に声をかけた。
モールではやや劣勢に立ったが、私の目にはフォワード戦は完勝であった。バックス陣の華やかさの陰で、
地道に耐え続けた勇士に、今シーズン初めての、そして最大級の賛辞を送った。

三回戦 対 秋田工業高校〔秋田〕

長崎北の過去三度の花園出場のうち、初戦を突破したのは、第66回・第67回大会の二回である。
そのいずれの長崎北の上位進出を阻んだのが秋田工業高校であった。過去、全国制覇15回を数え、
高校ラグビー界の王者として君臨する名門高校にとっては、ほんの些細な出来事に過ぎないが、それを
因縁に感じ、試合に対するひたむきさと、「何も失うものがない」という開き直りが大殊勲をもたらした。
高校ラグビーに絶対はありえない。王者にとって、第一シードの勲章はかえって重荷だったのか。
長崎北は15人が身体を張ったプレーで集中し、不可能を可能に変え得る高校ラグビーの醍醐味を魅せた。
完全燃焼のフィフティーン、会心の勝利であった。

準々決勝 対 大阪工大高校〔大阪〕

超高校級パワーラグビーへの果敢な挑戦が、花園の晴舞台で花開いた。北高陣へ絶え間ない波状攻撃を
仕掛ける大阪工大高に対して長崎北軽量フォワードが低く、さらには激しいタックルで応酬し最後の砦を
死守する。そして、僅かなチャンスを見出すと、走力でいくらかのアドバンテージを有するバックス陣が
華麗に、かつ大胆にオープン攻撃を仕掛けて一撃を加えた。
ノーサイド間際の24分には、勝利を確信させるトライを決めた。ほんの一瞬、相手が背を向けた間隙を
見事に衝いたものであった。この試合で奪った4つのトライは、いずれもスクラム、ラックからの素早い球出し
から生じたものだった。強固な組織デェフェンスを誇る、大工大高の僅かな隙を見逃さなかったバックス陣の
高度な判断力が光った。守っては、さらに鋭いアタックルが古豪の意地とプライドを賭けたゲインライン突破を簡単には許さず、最後の最後まで試合の主導権を手放すことはなかった。
普通の高校生もやればできるのだということを具現化し、全国のいたるところで花園を目指すラガーメンに
夢と希望を与えた好試合であった。

準決勝 対 東京農大第二高校〔群馬〕

永かった長崎北の花園にノーサイドの笛が響き渡った。その瞬間、万感胸に迫るものがあった。夢にまで
見た、聖地花園へ向かう時から、いつ何時敗れても、またどのような試合内容であっても、将たる者は
決して涙を人前にさらしてはならないと意を決していた。しかし、これは悔しさや悲しさの涙ではなかった。
いつの日かこんな時が来るのは解ってはいたが、とうとう来るべきものが来たのを静かに悟った。これまでのいろんな出来事や苦しかったことが走馬灯のように浮かんでは消えていった。

ここまで来れたのは学校の全面的な支援はもとより、OB会、同窓会、父母の会など、NAGASAKI KITA RUGBYを取り巻く全ての方々のご尽力の賜である。苦しみもがいていた4年間の間、じっと見守って
いただいた田浦直後援会長のご恩は一生忘れることはできない。

愛情をもって、ジュニアラグビーを丁寧に指導してくださる先生方の真摯なラグビーが大きな花を咲かせた。
4年間の苦楽を共にし、大会に限らず遠征などにも同行して選手を励まし続けた親爺の姿がスタンドに
あった。第九代校長田中正明〔現・長崎女子短期大学学長〕。勇退を間近に控えた親爺は、花園ラグビー場
の電光掲示板に校名やメンバーが映し出される光景を目の当たりにして、「まるで、夢文字のようだ」と
深い感動を表現した。

子供たちがラグビーを続けることに対して、いつも暖かい声援を贈りつづけた父母の会。母校をこよなく愛し、
全世界で活躍している同窓の方々。心を一つに、選手と共に戦い抜いたOB会。

最後は、ピッチに立つ選手、スタンド、そしてベンチの全てが一つになって攻め続けることができた。
ノーサイドの笛に合わせたかのように、新春の花園を爽やかな薫風が吹きぬけたように感じた。
12月25日に長崎を発つ前に皆と誓ったことがあった。「この勝負がどう転ぶか全く予断はできない。
しかし、どんな結果になろうとも悔いだけは残すまい。全てのプレーに全力を出し切ろう。やるだけの全てを
やった後に、いよいよ最期を悟ったその時は、これまで支援してくださった全ての方々に感謝をしながら、
日本男児らしく堂々と鮮やかに散ろう・・・。」見事なまでに実践してくれた選手達には感謝の念でいっぱい
である。これ以上何も望むものはない。全てを出し切り、鮮やかに散った。まさに有終の逆襲、そして笑顔の
ノーサイドであった。

K 終章 「94 冬花園を目指して」

日本選手権試合において、神戸製鋼所が堂々の優勝を飾った。事実上の93年度シーズンの幕引きである。
全国第三位という栄光を胸にした28回生25人は、新しい世界を目指して各々が活動を開始した。それと
時を同じくして、久松泰治新主将のもと「94冬花園」を目指して、新チームの長い一年が動き出した。
前シーズンで実際の試合を体験しているのは僅か1名のみ。さらには、体格スキル共に恵まれないという、
厳しい状況でのスタートを余儀なくされた。

確固たるスタイルを持ち合わせていないし、チームに核になりうるプレーヤーもさほど見当たらない。春の大会では、若いメンバーが半数を占めた。当然のことながら、チームの牽引者たる最上級生の3年生が動き
出さない。ここで焦っては駄目と自らに言い聞かせ、じっと我慢の春シーズンであった。

時だけは刻々と過ぎ、夏の合宿に突入した。ここに来て最上級生たちの動きに魂が入り始め、チームの核になりうる選手が出現してきた。新チームに関しては、実戦の経験に乏しいということが最大のネックとなって
いた。しかし、人間たるもの、一所懸命に頑張れば必ずどこかに光が射してくるものである。彼等29回生は
常に真剣だし、ひたむきな努力を惜しまない。秋のシーズンではブレイクするであろうという、いささかの
自信が生じた。

高校ラグビーは常にゼロからのスタートである。全国全てのチームが求めるテーマは日本一であろう。
幸いなことに、彼等は先輩達の戦いぶりとラグビーに懸ける意気込みを実際に目の当たりにしてきた。
一人ひとりが確たる目標を定めて、一歩一歩近づいていく事ができれば、必ずや満足のいくシーズンが
展開されるものと期待している。

【了】